ボーイング747型機は、直接アメリカには向かわず、韓国を目指して飛んでいた。格安だったので、韓国の会社の飛行機を利用し、乗り継ぎでアメリカに行くというルートをとった。そんなわけで、ほとんどの乗客が韓国人だ。

一人旅は初めてだ。何がボクをアメリカにかきたてたのか? そんな自問と同時に答えがすぐに帰ってきた。

アメリカに行きたいんじゃない。日本に居たくなかっただけなんだ。

ボンヤリと窓の外の雲を眺めていると、機内食が運ばれてきた。さして空腹ではなかったが、食べずにこのあと腹がへると、後から困ると判断して、ボクは出てきた料理を口にすることにした。

食事が終わり、しばらくすると、胃のあたりがシクシク痛みだした。さっき食べた、甘さを抜き取ったプリンみたいなものにあたったのかな――そういえば、口に入れた時すこし臭ったような気がする。ボクはスチュワーデスを呼んだ。

“I have すとまっくえーく!”

トラベル英会話の本を片手に何度も必死に訴えてみたが、発音が悪いのか、こんな短いセンテンスが相手に伝わらない。いきなり、挫折感が押し寄せてきた。ついでに、ウンコもしたくなってきた。胃の痛み、通じない英語、そしてウンコ、と立て続けに襲ってくるパニックに対して、韓国についたらすぐさま日本に帰ろう、と弱腰な気持ちになっていた。

仕方なく、本にある“stomachache:胃の痛み”という単語を指差しながらスチュワーデスに説明しようとしたとき、

「どうかしましたか?」

隣に座っている西洋人の男性が、声をかけてきた。

助かった。この人は日本語が話せる。ボクは普段はないがしろにしている神様に感謝。

が、次の瞬間、その形相に驚かされた。笑顔なのだが、フランケンシュタインを思い起こさせる大きくて細長い顔。もちろん、黒目はある――いや、正確にはブルーか。しかし、ナイフで切られたような額の傷跡に、尋常でないものを感じる。

マフィアだろうか?

こ・わ・い……。

親切心から助けてくれようとしてくれている人に対して、はなはだ失礼だが、これがボクの彼への第一印象だった。薄くなった白髪まじりの頭から察するに、歳のころは四十代後半といったところだろうか?

「具合がわるいようですね?」

「ええ、実は食事にあたったみたいで、さっきから胃の調子がどうも……。それに、英語も通じなくて……」

どうやら食中毒のようだ、と彼に泣きついた。

「わたしが代わりに説明してあげましょう」

フランケンシュタインは親切だった。彼は日本語だけでなく、韓国語も話すことができた。一言二言の会話の後、スチュワーデスはすぐに粉薬と水を持ってきてくれた。

薬を飲んだ安堵感も手伝ってか、胃の具合はしばらくすると良くなってきた。韓国の薬なのだろうか、すこし甘辛い感じがした。それからすぐさまトイレに駆け込み、用を済ませて戻ると、ボクは命の恩人に名前を訊ねた。

にこりと彼は笑みを浮かべた。「ジョナサンといいます」

アメリカ人だそうだ。そしてボクも一応の自己紹介を済ませ、さてこれから世間話でも、と思ったときにシートベルト着用のランプが点灯した。俄かに機内がざわめきはじめ、会話は中断。皆、降りる準備にかかった。それから間もなく、ジャンボは乗り継ぎ空港に着陸した。

ボクは、てっきりジョナサンも韓国で乗り換え、同じ便でアメリカへ向かうのだろうと思っていた。が、韓国にいる友人に逢ってからアメリカに帰る、ということでお別れとなってしまうかにみえた。

別れ際に「そうそう」と、彼は思い出したように手を叩き「先ほど機内で君は食中毒だと言って、胃の痛みを訴えましたね。あれは、食中毒でもなんでもありません」

「へっ?」

ボクは呆気にとられた。でも、ボクはスチュワーデスからもらった薬のおかげで胃の痛みが治ったわけで、と説明にかかろうとすると、

「暗示で治したまでです」彼は断定した。「見たところ、君は一人旅のようだ。それに、海外旅行の経験もこれが初めてなのでしょう。それから、何らかの不安を抱えながら飛行機に乗った。一人のときが一番多いんですよ、こういった症状を起こすのは。極度の緊張から胃がシクシクしているときに食べ物を口にした。そんなときに、胃はこれさいわいと過剰に反応したのです。君の内心に応えるためにね。つまり、不安だからやっぱり日本に帰りたい、という気持ちにです。ところが君の心の中には、もうひとつそれとは相反する気持ちがあった。多分それは、日本から離れたい、といったところだろうか……。

同量の相反する気持ちが内心にあるとき、一方に荷担する刺激が外心に加わると、内心はその刺激のあった方向に現象を創造しようとする働きがあるんです。この場合、薬が刺激となって、日本から離れたい、という気持ちに荷担した。だから、君の精神的な胃の痛みは回復した。食中毒でもなんでもありません。もし、食中毒なら、我々の他に同じ食事をとった乗客にも、何らかの症状が出るはずですからね」

ナイシン、ガイシン――何ですか、それは?

それらの言葉が何を意味しているのか良く判らなかったが、言われてみればその通りだ。ジョナサンは初めからそのことに気づきつつ、ボクに薬を飲ませたのだろうか? 暗示にかけるために……。

「でも……」薬の効果もあったかもしれないじゃないですか、と反論しようとするよりも早く、

「ちなみに、君が飲んだのは、私がスチュワーデスに頼んで作らせた塩と砂糖をまぜたものです。包みは本物ですが……」と笑いながら、薄い頭を掻いた。「機会があれば、また逢えますよ。人は、逢うべき時には必ず逢えるのですから

彼は手をさしのべた。

キツネにつままれたような気分で、ボクはジョナサンと握手をした。

アメリカ行きのゲートに向かう途中、ひとつの疑問がボクに起こった。なぜ、ジョナサンは、ボクが日本を離れたがっているのを知っていたのだろう。暗示です、の次は「勘です」とでも言うのだろうか? そう思うと、せめて連絡先だけでも訊いておけばよかったと考えなおし、もときた道を戻りジョナサンを探したが、彼の姿はもうなかった。

なんだか、呆気なかった。

そしてボクは、もう一度ジャンボへと乗り込んだ。

アメリカまでは、かなりの時間を要した。LAX(ロサンゼルス国際空港)の税関で入国の手続きを済ませ、バゲッジ・エリアで荷物を受け取り、ロビーを横切る。自動ドアが開くと、乾ききった暖かな風がボクの頬を撫で、抜けるような青空が目の前いっぱいに広がってきた。日差しが、まぶしい。広い道幅に大きな車の群れ――やっと着いた、という実感がこみあげてくる。

ちょっとした達成感を噛みしめながら、ボクは大きく伸びをした後「よしっ」と気合を入れて、バス乗り場へと向かった。

とりあえずは、リトル東京だ。

これだけが、旅に出る前に決めていたことだった。それ以外――観光地をまわる計画や、その日に泊まるホテルなど――は、何も決めていなかった。リトル東京に行けば、日本人がたくさんいるから英語の苦手なボクでも何とかなるだろう、という安易な発想だけが、ボクを動かしていたのだ。

だが、乗り場まできたのはよいが、どのバスがリトル東京に行くのか見当がつかない。

ガイドブックを開けた。親切に書いてあるのだが、緊張感も手伝ってか、理解できない。いきなり大きな不安にかられて、あたりを見回した。

小太りで気のよさそうなおばさんがベンチに座っているのを見つけ、勇気を振り絞り“Iうぉんっと go Little Tokyo. This is a bus. OK?” ――リトル東京に行きたいのですがこのバスであっていますか、と訊いたつもりで目の前のバスを指差した。

おばさんは、ニッコリと笑った。たぶんイエスの意味なのだろう。

ボクは背中からバックパックを降ろし、降車口に立つ運転手に荷物を積んでもらった。それから訊いた。“Little Tokyo! This bus is OK?”

NOといった表情で、彼はまずそうに首を振り、バスのわき腹から荷物を取り出して、その前に停まっているバスを指差した。

ボクはとりあえず言った。“Thank you”

荷物を担ぎながら前のバスに向かう。さっきのおばさんが、まだそこにいたので、思いっ切り睨みつけると、おばさんはまたニッコリと笑った。

どうやら悪気はないのだろう、ゆるしてやるか。

次のバスの運転手は、真っ黒なサングラスをかけた黒人だった。これで三度目だな、と思いながら“Little Tokyo! OK?”

彼は返事もせずに、無愛想にボクから荷物を奪い取り、バスの横腹に放り投げた。ボクは“Thank you”と言ってバスに乗り込み、運転席の真後ろに座った。運転手が乗り込んでくると”Little Tokyo! Little Tokyo!”と何度か叫んだ。彼はだるそうに鼻を鳴らして頷いた。そしてボクは、もう一度言う“Thank you”

バスが動き出した後、空港を出てから「リトル東京」と「サンキュー」を何回言っただろうと考えると、少し情けなくなってきた。

それに、よく考えてみると、ボクはあのおばさんに「これはバスだ。判ったか?」と言ったことに気がついた。あの微笑みは「きっとバカだ」と思ってのものだったに違いない。顔面が一気に真っ赤になった。

どれくらいバスに揺られていただろう。途中、疲れていたのだろう、何度かウトウトした後、いつの間にか寝入っていた。

何かに躓きガクンとバスが揺れた拍子に、運転席の仕切りにおもいきり頭をぶつけて目を覚ました。いつの間にか高層ビルの群れの中を、バスはのそのそと走っていた。何回目かのバスストップで運転手はボクに振り向いて、アゴで「ココで降りな」という素振りをみせた。

バスのわき腹からバックパックを出してもらうと“Thank you”と言った。少し歩き始めてから後ろを振り返ると、黒人の運転手はまだ立っていて、目と目が合ったかと思った瞬間、彼はおもむろに”Good luck!”と白い歯を輝かせて言って、バスに乗り込んだ。

ふぉんふぉーん、とクラクションを鳴らしながら、バスはゆっくりゆっくりと走り去って行った。

少し嬉しかった。

通りすがりの人たちに何度も道を訊きながら、ボクはどうにかリトル東京の一角に到着。