ジャパニーズ・ビレッジ・プラザ――「日本村広場」と書かれた標識が、立っていた。プラザの入り口には、大きなコンクリート製の火の見櫓が建っている。

「こういうのをシンボルにするかァ、ふつう……」

ため息混じりに呟いた。

まずは、寝る場所の確保だ。

道路をはさんだスクエアの反対側には、何件かのホテルの看板が見えた。その中で、ボクの目を引く看板がひとつ――“オベリスク・ホテル”と、カタカナで書かれている。日の丸の赤い部分には目らしきものが描かれていた。長いまつげが妙にヒワイだ。ホテル名の下には「ようこそ いらっしゃい」。ちなみに“ようこそ”の「こ」と“いらっしゃい”の「っ」の字が、左右逆になっていた。オベリスクってどういう意味だろう、と考えてみたが何も心当たりがない。

とりあえず、このホテルに入ってみよう。

所々カベが崩れかけた、汚いビルのドアの窓には、鉄格子がはめられている。ノブを回すと、やたらとチリが積もった階段に出くわした。ネズミでも出そうな雰囲気だ。階段を登りきったところには、電話器があった。狭いが、ここがロビーなのだろう。電話の横の小さなガラス窓の前には、呼び鈴。

チリリンとベルを押してフロントを呼びだした。少し色黒で髪の長い――西洋人というよりも中東的な雰囲気がする――女性が出てきた。彼女がオーナーなのだろう。

「今日コッチに来たの? ホルスの目と日の丸をかけ合わせた看板に惹かれて来たのね。この辺じゃウチが一番安いわ。それに私は昔、日本に留学していたから日本語もペラペラよ。何泊する?」

色気を感じさせるというか、気だるそうな話し方だ。言っていることの前半はよく理解できなかったが、ボクは「とりあえず、一泊」と応えた。

「日本人って……」彼女は、髪をかきあげた。「何にでもその言葉をつけるのね。とりあえず――って、まだ流行っているの?」

「まあ、そんなところです」

と、あやふやに返事。

フロント正面の部屋に通された。少しカビくさい。部屋の窓からは、シンボルの火の見櫓を見ることができる。シングルベッドの脇には、イスがひとつ。タンスの横にあるクローゼットの中には、ハンガーがふたつ。それが、この部屋にあるすべてだった。テレビはない。トイレとシャワーやキッチンは、共同だそうだ。もちろん、電話も。

イスに座り、ボンヤリと窓の外を眺めているうちに、ボクはいつの間にか眠りについていた。

カラスが夜空を飛んでいる。真っ黒なカラスが月明かりもない空を飛んでいる。闇の中なのだから、見えないはずなのに、ボクにはカラスが飛んでいることが判る。

ボクはそのカラスを何とか捕まえようとするが、捕まえることができない。でも捕まえなければ、とあがいているとイスから落ちた。

変な夢から覚めると、あたりは結構、薄暗かった。時計に目をやると、午後の六時を過ぎている。

「とりあえず、何か食おう」

急に空腹感を覚え、ロビーを横切って階段を下りた。鉄格子のドアが閉まった瞬間に、ポケットの中に玄関と部屋の鍵が入っているかを確認した。防犯上、午後九時には玄関に鍵をかけるのだそうだ。

ジャパニーズ・ビレッジ内の雑貨屋で周辺の地図を購入すると、おまけに観光客用の『リトル東京ガイド』という小冊子をもらった。礼を言って店を後にし、ラッキーストライクに火をつけた。辺りを見回し、目の前にあった小さなレストランで、牛丼とペプシを注文した。ファーストフード店を思い起こさせるカウンターで料理が出来上がるのを待つ間、雑貨屋でもらった『リトル東京ガイド』に目を通した。そこには「一八五五年、二十人ほどの日本人が北カリフォルニアからロサンゼルスに移り住み、レストランを始め……」というくだりから始まるリトル東京の歴史が、細かく――写真付で――解説してあった。パラパラとページをめくっていくと、裏表紙に二宮金次郎の写真を発見した。薪を背負って本を読んでいる――おなじみのポーズの銅像だ。どうやらこの近くにあるらしい。

でも、なぜ?

ボクは母校の正門を思い出し、少し懐かしい気分に浸った。

「おまたせ」とトレーにのった牛丼とペプシが、カウンターの上に無造作に置かれた。牛丼とは名ばかりの、どちらかといえば“すき焼き丼”のあまりのマズさに半分残し、ペプシはそのまま手にもって店の外に出た。

そこに!

ちょうどそこに、

彼女は、いた。

軽くウェーブがかった黒髪。黒のブラウスに黒の膝上までのスカート。そして、黒いヒール。

彼女は、ボクに背を向けるようにして、大きな夕日を眺めていた。

でも、どうして、何だって、こんなところに彼女がいるんだ?

頭の中でパニックを起こしているボクに気づいたのか、彼女はゆっくりとボクのほうに振り返り「やっぱり――」と微笑んだ。

やっぱり――彼女の、ボクとの再会の最初の一言は、やっぱり。でも、いいのか、五年以上も逢っていない者同士が、そんな言葉から始めちゃっても。

「来ると判ってたよ、も・り・お・か・クン」

彼女は髪をかきあげた。ふわふわっ、と柔らかな髪が肩に着地する。

「彩香……ちゃん。なんで――」

気が動転していた。そして、いつの間にか、大きな瞳に引寄せられるがまま、ボクは彼女に歩みよっていた。

「なんで、彩香が、こんなところにいるんだ? それに、どうしてボクがここに来るって――判ってたァ……?」

思わずペプシを落としてしまいそうになった。素っ頓狂な声をあげるマヌケなボクの表情を見て、彩香はクスッと笑った。

その日の晩、ボクたちは数年ぶりの再会を祝して、酒を飲むことにした。

「行きつけのお店に連れて行ってあげるネ」

彼女の言葉に、アメリカ独特の薄暗いコンクリートむきだしのカベがゴツゴツしたショットバーを想像した。だが、連れて行かれた店は、どうやら日系人が経営している店で、明るい店内に、ピアノが一台置いてある和風レストランだった。

そこここに、日本人がいる。

ここはアメリカだよな、とボクは心のなかで確認した。

カウンターの奥の方では、日本企業のサラリーマンらしき人達が、テンプラを食べながら、くだを巻いている。反対側のテーブルには寿司をつまんでいる老人。ピアノのある薄暗いステージ近くの客は「さゆりちゃん、やってェ」と、日系らしきピアノ弾きに演歌をリクエストしていた。テンプラや寿司に演歌のピアノ――何でもありか、ここは!

彩香とボクは、ピアノの音がかろうじて聴きとれるテーブルを陣取った。

「彩香、どうしてアメリカに?」

ボクは、バドワイザーのリップを引き上げた。

「どうしてって、アメリカに来ることが私の夢だったからよ。お店でも、ベッドであなたがタバコをふかしながら寝ていた隣でも、私はいつも言っていたはずよ」

彼女は、バターシロップのかかったポップコーンをほおばった。

ボクは彼女と過ごした期間の記憶を甦らそうとしたが、

「そんなこと言ってたっけ?」

思い出せなかった。

「うん、森岡君が覚えていないだけよ」

彼女はマルボロ・メンソールの煙を細く吐くと、バドワイザーをすこし口にした。そして、トンとおもむろに缶を置く。「ねえ、ディズニーランドやユニバーサルスタジオにはもう行った?」

「今日こっちに着いたばっかだよ、日本村広場なら少し観光したけど。どこにも行ってないし、どこかに行こうかなんて、まだ何も考えていない。二宮金次郎の銅像には、少し興味があるけど……」

ボクの回答に少し噴き出すと「どこに行こうか決めていないなんて、変なのぅ。でも、森岡君らしいわ」彼女は目を大きく見開いく。「ねえ、森岡君こそ、何しにこっちに来たの?」

彼女の問いにうまく答えられる言葉を見つけられず、黙りこくった。

沈黙が、しばらくボクたちを覆う。

「ねえ」

にごった雲をさえぎったのは、彩香。

「あたしがいろいろ案内してあげる。とりあえずは、アナハイムに行こっ――ディズニーランド。ねえねえ、ドナルドダックとミッキーマウス、どっちが好き?」

彩香は子どものような笑みを浮かべた。

「どちらかと言えば、ミッキーかな」

「ふうん。私はドナルド。だって、彼って短気で欠点だらけだけど、いつも一所懸命じゃない。好きだなァ、ああいうがむしゃらな生き方って……。ねえ、いつ行く?」

 

本当は、明日でも明後日でもよかったのだが、次の金曜日にでも、と言うと彩香は「じゃあ、金曜日にお休みをとるわ」と笑顔になった。

彩香と再会したとたんに、ボクは昔のボクに戻っていた。彼女の働くスナックに始めて行った日や、始めて同伴した日に、始めて寝た日――いろいろな記憶がいっきに甦り、ボクの頭の中で錯綜した。

なんで、次の金曜日にお願いするよ、と言ってしまったのだろう? 

薄暗いホテルの部屋で、彩香からもらった美容室のネームカードを見つめつつ、ラッキーストライクに火をつけた。カードの裏にはボールペンで彼女のマンションの住所と簡単な地図。その下には自宅と携帯の番号。地図には待ち合わせのレストランの場所が黒く塗られていて、そこから矢印を引っ張って「ココ!」と大きな字で書いてあった。もうひとつ黒く塗りつぶされた個所には「あたしん家」と書いてあった。ボクは買ってきた地図とネームカードの地図を見比べた。

「チャイナ・タウンかァ……」

小さく呟きベッドにもぐると、昔の彩香のことを思いながら、ボクはマスターベーションをした。そして、そのあと眠りについた。

罪悪感がして、むなしかった。