2 ミッシング

金曜日が来るまえに、ボクはオルベラ街へ行くことにした。メキシコ人の街だ。別に、メキシコに興味があったわけではない。ただそこが、オベリスク・ホテルから徒歩でも行ける観光スポットだったからだ。

オルベラ街には、プラザからメイン・ウェイを北上し、サンタ・アナ・フリーウェイを超えてしばらくいくと、たどり着くことができる。ホテルのオーナーが、長い髪をかきあげながら面倒くさそうに、地図を描いてくれた。話によると、ロサンゼルスという名は、かつてメキシコ人たちがこの地に移り住み街をつくりあげ、その辺り一帯を『天使たちの女王の広場(El Pueble de Nuestra Senora la Reina de Los Angeles de Porciuncula)』と名づけたことが、由来だそうだ。

ロサンゼルス発祥の地と聞いて、少し興奮気味で出かけたのだが、着いてみると、街といってもさして広くはなかった。石造りの家に囲まれた道の真中や両脇に、掘っ立て小屋を思わせる民芸品の店や食べ物屋が所狭しと立ち並んでいる。だが、観光客は結構多く、カメラを首からぶらさげた日本人も何人かいる。 

ボクは民芸店で銀の腕輪とイエス・キリストのペンダント・トップを購入した。別にキリスト教徒ではないのだが、デザインが良かったのでついつい買ってしまった。いわゆる衝動買いというやつだ。それから、昼食にタコスを食べながら、まがいなりにも大阪に数年住んでいて、モノを買う時に値切らなかった自分に腹を立てた。帰りはアムトラックのユニオン・ステーションに行き、長いベンチに座って時間をつぶした。たったこれだけのことだったが、ボクにとってはちょっとした冒険まじりの観光であった。

ここから更に北西に行けば、チャイナタウンだ。彩香からもらったネームカードと地図をポケットに入れておいたので、行こうと思えば行ける。だが、平日なのだから行っても彩香は仕事で留守だろう。ボクは金曜日を待つことにした。

どうでもいいけど、ロサンゼルスってところは、ごちゃ混ぜなところだと思う。リトル東京があって、メキシコ人街があり、そしてチャイナタウン。まあ、もともとがフロンティア・スピリットにのっとった移民の国なわけだから、どんな民族でも受け入れる基盤があって、こういった場所が結構スンナリと出来上がっていったのだろう。

駅前で、風にそよぐパームツリーの写真を撮ろうとアングルをきめていたら、あやまってイヌのウンコを踏んでしまった。

どこで洗おうか、このクツ……。

そして、金曜日がやって来た。厚い雲が、所々、空を覆っている。

共同キッチンでお湯を沸かしてひげを剃り、歯を磨く。緊張していたのだろうか、ひげを剃っているときに、かるく頬を傷つけてしまった。少し落ち込んだ。

ボクは彩香からもらったネームカードと地図をジャケットのポケットに詰め込んで、チャイナタウンへと向かった。ミニバスの“ダッシュ”でいけばいいわ、とホテルのオーナーにアドバイスをもらったが、歩いていくことにした。

チャイナタウンといえば聞こえはいいが、実際きてみると、何だか寂れた町といった感じがした。アスファルトの道はいたるところが砕け、老朽化が進んだ建物ばかりだ。馴染めるものは、漢字の看板。

ボクの心は、暗鬱だった。

――?

おかしいじゃないか。今日は彩香がボクをディズニーランドに案内してくれる日なのだ。昨日の夜まではワクワクしどうしだったのに、何で今日はこんなにも心が重いのだろう? 

そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか待ち合わせのレストランに到着していた。油が染み付いたガラス窓の向こうには、ニワトリが釣られている。甘酸っぱい香りに包まれ、ボクは飲茶をしながら彼女を待つことにした。

結局、彩香は待ち合わせの時間には来なかった。十分、二十分を過ぎても、彼女は現れなかった。三十分を過ぎると少し苛立ち木製のテーブルを指でコツコツと叩き始め、やがて四十五分が過ぎようとした時に、ボクは席を立った。店の外に出て近くの公衆電話から自宅に電話をかけてみたが、彼女は電話に出なかった。そのあと携帯にも電話してみたが、結果は同じだった。

何かあったのだろうか?

とりあえず、彼女のマンションまで行ってみよう。

彩香の描いてくれた地図は見にくかった。でも、道が単純だったので、すぐにマンションに着くことができた。想像していたよりかはきれいな所だ。エレベータに乗って三階まで上がる。彼女の部屋は、廊下のつきあたりだった。咳払いをし、胸元を正してから、ボクはインターホンを鳴らす。

反応がない。

少し間をおいて、もう一度鳴らしてみた。

反応がない。

胸騒ぎ。

ドアノブに手をかけた。

カギはかかっていないようだ。

開けようとした刹那“What are you doing here !?”

「――!」

慌ててボクは、声のする方を振り向く。

そこには、巨体が立っていた。

思わず見あげる。見あげていくのと同期して、口が開いていく。見あげ終わったとき、その人物があまりにも意外だったので、ボクの口は、しばらく開放状態だった。

そこには、あの人が立っていたのだ。「ジョナサン……」

「久しぶりですね、ミスター……?」

「森岡です」

「ミスター森岡。彩香とは知り合いなのですか? 彼女は今日、仕事のはずだが」

ボクはジョナサンに、彩香と今日逢う約束のことをかいつまんで説明した。事情を察して、ジョナサンは部屋に入ることに付き合うと言ってくれた。

ピンクを貴重とした壁。廊下が奥の部屋の突き当りまで伸びている。そこがキッチンのようだ。こぎれいな部屋だった。

キッチンの窓が開いていて、ウィンドウチャームが揺らぎの音を奏でている。

「――?」

テーブルの上にある何かを、ジョナサンが発見した。

「何か書いてあるようだが……」

ジョナサンは読まずに、それをボクに手渡す。

真っ白な便箋には、こう書いてあった。

私を助けにきて

体が、ぎこちなく震えた。

どういうことなんだ?

彩香は誰かに連れ去られたのか? 

慌てて部屋の周りを見回してみたが、荒らされた形跡はない。が、テーブルの下に、彩香のものらしき真っ赤なノキアの携帯電話が落ちているのをボクは見つけた。

一体どうすればいいんだ。

ほとんど無意識的に、ボクは携帯をとろうとした。

「触らないほうがいい!」

手を制され、思わずのけぞる。

確かにそうだ。指紋とかが残ると、後で厄介なことになる。こんな時は、警察を呼ぶのが常套手段だ。でも、便箋に書かれた「私を助けにきて」という文章――それは……それはきっと、ボク宛に書かれたものに違いない、という確信があった。彩香は、ボクに助けを求めているのだ。もし仮に、彼女を助けるための情報が、あの携帯にあるとしたら……。いや、ある!

刹那的にそう判断して、ボクは携帯をつかんだ。

“What the hell…!” ジョナサンが叫んだ。「君は……なんて事を」

彼は、両腕を上げて「やれやれ」と首を振る。

ボクは、静かにジョナサンを見つめた。「これが、彼女の望んでいることなんだ」

「私にも判る。だが、今の君の行為は、君が歩んでいる道を変えたということなんだぞ。それも理解しているんだろうね」

「判っている……つもりだよ、ジョナサン」

そう応え、ボクは彩香の携帯に目をやった。

赤を基調としたボディーの裏には、スヌーピーの絵と下のほうには不思議な図柄が施されていた。ストラップには、ピンクとブルーの大きな鈴がふたつ。

「彩香……約束する。ボクが助けてあげるからね」

そう言うと、ウィンドウチャームが呼応したかのように鳴った。

警察に連絡。


ボクとジョナサンはその場で事情聴取をされ、身元と住所の確認をとられた。応答はほとんどジョナサンがしてくれた。警察はこれを誘拐事件として扱うか判断に苦しんだ。一人暮らしの女性が突如いなくなっただけ、という感覚で彼らは動いているようだった。考えてみればそれもそうだ。ひとり暮らしの彩香を誘拐したところで、身代金を払う人間はいないのだし、仮に突発的な犯罪に巻き込まれたとしたのなら「私を助けにきて」なんて文章を書いている時間はないはずだ。部屋に争った後や抵抗した跡がないというのもおかしい。

かなり不利だったのは、ビザの確認がとれなかったことだ。通常アメリカでは、観光を目的とした九十日以内の滞在なら、ビザを必要としないのだが、彼女の場合、それ以上の滞在が予想された。そんな場合、B―2というビザならば六ヶ月の滞在が許されるのだが、その確認がとれなかったのだ。 

これは後から聞いた話なのだが、アメリカにきて違法で働いている人間は、最初は観光で入国し、ビザの期限なんか関係なしに、いつまでも働きつづけているそうだ。警察がそんな人間たちにガサ入れするかといえば、案外それはなく(キリがない)、よっぽどのたれこみがあった場合にしか彼らも摘発しないらしい。

とにかく、警察はやる気がなかった。不法滞在(と早くも決め込んでいたのだが)の日本人が、ある日、急にいなくなっただけのことじゃないか、というぐらいのことなのだ。彼らの感覚からすれば「誰に告げることもなく、どこか別の場所に行ってしまったのだよ」という程度の事なのだ。

”Search for me, and help me”ではなく”Help me!”なら、俺達ももっと真剣にうごいてやれるんだがなあ、ということを言っていた。変な詭弁だ。

失踪事件として捜査はするよ、と言って彼らは去っていった。「しばらくは放っておくよ」という意味だと、ボクは理解した。

携帯のことは、黙っておいた。

ウィンドウチャームを見ながら思う――やはり、ボクが彩香を見つけ出し、助け出さなければならない。

ジョナサンはボクがホテル住まいであることを知って、部屋に来ることを勧めてくれた。ボクは彼の提案をありがたく受け入れ、その日のうちにチェックアウトを済ませ、荷物を移動させた。

ジョナサンの部屋は、彩香の部屋の真正面だった。考えてみれば、ボクが彩香の部屋に入ろうとしたときに、ジョナサンと逢うなんて偶然を不思議に思わなかったのは、それだけボクが彩香のことに気をとられていたからなのだろうけど、真正面なら、こういった偶然があっても不思議ではない。

意外だったのは、部屋が土足禁止だということだ。壁は白で統一されていた。造り的には彩香の部屋と変わらないようだが、雰囲気はかなり違っている。それはきっと、ジョナサンが好んで焚いている香の匂いも手伝っているのであろう。チャンパという香だそうだ。

ボクは居間のロッキングチェアーにもたれながら、彩香の携帯を眺めていた。着信履歴からは、最後の表示がボクが掛けた公衆電話からのものと推測できるぐらいで、その他の番号には全然心当たりがなかった。あたりまえと言えばあたりまえの話だ。ボクはアメリカに来て、まだ一週間も経っていないのだし、別れてからここに来るまで彼女に連絡などしていなかったのだから、他の番号を見ても、それが友達からの電話なのか、店のスタッフからのものなのか見当などつくはずもないのだ。

「店のスタッフ……?」

おもむろに、ボクは頬を掻いた。

まずは、彩香の働いていた美容室からあたるしかない、という結論に達した。それと、もっと身近にいるジョナサンも彩香の顔見知りなのだ。そこから手がかりを得るしかない。

「何か判ったかい?」

咳払いをして、ジョナサンがキッチンから紅茶を持って現れた。香りからアールグレイだとすぐに判った。

「ジョナサンはいつ頃から、彩香と知り合いだったの?」

アールグレイを一口飲むと、ボクは話をもちだした。

「いつ頃かはハッキリと覚えていないが……」彼は少し頭を傾け、しばらく考え込んだ。「ずいぶん前から彼女のことは知っている。ただ、話などはあまりしたことがなく、合えば挨拶をする程度だった。まさか、私のことを疑っているんじゃあないだろうね?」

彼は両肩を上げてみせた。

「何の確証もないのに、疑ったりはしないよ。ただ、ボクは彼女を助けたいんだ。助けたいんだけれど、これよりこの先、どうしたらいいのか判らない。だからボクは……」

「まず君が、最初にしなければならないことは」ジョナサンは、ボクの言葉を制した。「心を落ちつけることだ」

「ボクは、落ちついている。少なくとも荒れてはいない」

「その反論が、落ちついていな証拠だ」

彼はボクの両肩に、ポンと手を乗せた。

「ほら、かなり肩があがっていただろう。今はどうだい。さっきよりかは落ちついているはずだと思うのだが」

確かに、ジョナサンの言うとおりだった。先ほどよりかは幾分、気持ちが楽になっている。

「多くの人達がそうなのだが、君も肩を上げることがクセになっている。自分からストレスをためやすい体勢をとっているんだ。どんな場面においても、明晰な判断をするためには、気づいたときにはまず両肩の力を抜くことだ。心と体は連動しているのだからね

「心と体は、連動している……?」

「さあ、目を閉じてみなさい。それからもう一度、両肩に意識を集中させ、力を抜き去るんだ」

ボクは、ジョナサンの言葉に従った。

「つぎに肩の力を抜いたまま、腰骨を真っ直ぐに立て、意識をお腹の辺りに持っていく。ヘソの下辺りだ。日本の武道などではこの場所を丹田と呼んでいるね。

その丹田から、君の意識を更に下のほうに降ろしていく。生殖器と肛門の間から一本のコードが地球の中心まで伸びている、と想像してみるんだ。大地としっかりと繋がっていると感じるんだ。これが基本的なリラックスのテクニックだ」

しばらく沈黙が続いた。

ボクは、自分が味わっている状態に浸る。とても気持ちの良い状態だったが、二十分ほど経ったと思うころ、目を開けてみた。

ジョナサンは、アールグレイの香りを楽しみながら、キッチンのイスに腰掛けている。あれからどれくらいの時がたったのだろうか、という質問に、彼は答えた。「五分だよ」