13 トランスフォーム

胸元が重い。

何でこんなに重いのだ。おぼろげに意識が戻り始めた。

そうだ、ボクは裏山の崖から落ちたのだ。それから…… それから。

死んだのか?

判らない。

目を開けよう。そうすればすべてが判る。

「おはよう」

「へっ?」

セルジオが、ボクの胸に乗っていた。どうりで胸が重いはずだ。

「紛らわしい! ボクの胸から降りろ!」

バサっと羽根を広げ、セルジオは飛んで行った。

「気がついた?」

声がした。この声は知っている。「彩香……」

彼女が立っていた。「久しぶり、森岡君」

ボクは上半身を起こした。「ああ。やっと逢えたね、彩香。ここは天国?」

「はずれ。それに地獄でもないわ」彩香が微笑んだ。「霊在意識にようこそ」

やっと逢うことが出来たという安堵感から、ボクは「ふうっ」と長い息を吐いた。

彩香はあの時と同じ服を着ていた。黒のブラウスに黒の膝上までのスカート。変わったところと言えば、黒のヒールがブーツになっていたということと、肩にカラスが――えっ、カラスぅ!

「ああっ?」気の抜け落ちるような声を発しながら、ボクはカラスを指差した。

「彼女? 私の友だち――メルって言うの」彩香はメルを見て「ねっ」と首を横にして微笑みあった。

そのメルっていうのは、子どもの頃からの夢に、よく出てきたカラスじゃないか! カラスなんてみんな真っ黒でよく見分けがつかないはずなのだが、ボクは直感的にメルがボクの追っていたカラスだと判った。そのカラスが彩香の友だちだなんて。

何がなんだか……。

ニ三回頭を振って髪をかきあげ、あたりを見回した。きらきらと輝く草原の広がり。おだやかな風が運んでくる草の香り。空は、抜けるように真っ青だ。

ボクは立ち上がった。「いいところだな、ここ。霊在意識の世界ってこんなにいい所なんだ」

「全部が全部って訳じゃないわ。森岡君と私の意識の同意している部分が現実となっているの」

「なんとなく、判るよ」肩に戻ってきたセルジオを撫でながら、彩香に訊いた。「ところでメルスたちは?」

「今のところ、ここまでは追ってはこないわ。それにしても、スゴイ拡張とシフトの仕方でコッチに来たわね。驚いちゃった」

「ボクも驚いてる。ジョナサンは大丈夫だろうか?」

「彼なら心配ないわ。異変を察知しているはず。それよりも急ぎましょう、あの意識に」

大きく目を見開いて、彩香はボクを見つめた。

「あの過去意識に――だな」

見つめ返す。

彼女はコクリと頷いた。「万物は絶えず生成流転を繰り返しているの。そんな変化する日々の事象という波に逆らうことなく、ためらわずに旅に出ること――それが五番目に渡す鍵よ」

それから、ボクの手を握りしめる。

一瞬にして、体が溶けていくような感じがした。

「ジェド! 早くこちらに」

かわいい声がした。姫さまがボクを呼んでいる。

「只今!」

ボクは、声がする方へと走る。

少女は、王宮の庭の片隅にいた。しゃがみこんで、何かを見つめている。

「姫さま、何を見ていらっしゃるのです?」

ボクは、彼女の後ろから覗き込む。

「これを……」

小さな手が指差した先には、黄金虫(スカラベ)の屍骸があった。彼女はボクのほうに振り向き「かわいそう」と、涙ぐんだ。

ボクは彼女に微笑んで「埋めてあげましょう」としゃがみこみ、土を掘り起こし始めた。

「私も手伝います」

「いえ、姫さまの手が汚れます」ボクは、少女の手を制した。「私にお任せください」

だが、彼女はボクの忠告に耳を貸さず、一緒に土を掘り始めた。

黄金虫を埋めると、ボクと彼女はその周りを小石で囲った。誰もこの地を踏まないようにという配慮からだ。

付近から声がした。「アンクセンパーテン、何をしているのだ?」

幼い王子がやって来た。

少女は額の汗をぬぐって、すこし微笑んだ。「スカラベのお墓を作っていたのです」

「そうか、アンクセンパーテンは優しいな」王子はスカラベの墓を一瞥して振り返る。「それより、アクナトン王が探しておられたぞ」

「何かしら?」

「さあ?」

王子は、大人ぶって両肩を上げ「とにかく、早く行った方がいい」と、彼女を急かす。

「ウン、判った。父上の用事が済んだら後で遊びましょう。ジェド手伝ってくれてありがとう」

彼女は王宮へと駆けていった。姫に頭を下げるボクを見て、王子が口を開く。

「ジェド、ぼくからも礼を言うゾ」

「もったいない、王子」

「いや。おまえはいい奴だ。それにしても……」遠ざかる亜麻布の少女の姿を追いつつ「アンクセンパーテンは、本当に優しい子だな。ぼくは将来あんな子と結婚がしたい」と目を輝かせた。

「王子なら、やがて立派な王になられ、アンクセンパーテンさまのようなかわいくて優しい方と結婚することも……」

「いや、ぼくは王などには興味はない。アクナトン兄さんの次はスメンクカラー兄さんが王の座に就くのだ。兄さんは、ぼくなどとは違って頭もいいし、体も丈夫だ」

「失礼しました」

「いや」彼は振り返り「それよりもジェド」

「はい」

「これからも、ずっとぼくの友だちでいてくれよ」

「もったいない、王子」

「そんなに形式ばるな」王子は笑った。「ツタンカーテンと呼んでくれ」

「御意」

ボクはツタンカーテンに頭を下げた。

「よし、かけっこをするぞ。ジェド、ぼくに追いついてみろ!」

急に駆け出した王子を、ボクは必死に追いかけた。

「アンクセンパーテンと結婚!」

怒りと驚きに満ちたツタンカーテンの声が、部屋中に響きわたった。

「落ちついて、王子」

ボクは彼に寄り添った。

「落ちついてなど…… 何故、王は自分の娘のアンクセンパーテンと結婚をするというのだ。彼女は、まだぼくと同じ子どもなのだぞ。ぼくには、兄上が理解できぬ!」

ボクは、机を叩きつけ泣き崩れる王子の肩に手をまわし「今回の結婚は宗教上の形式的なものと聞きます。ですから」と囁いた。

「いやだ!」

ツタンカーテンは、ボクの手を払いのける。

形式的な結婚とはいえ、彼の気持ちがボクには痛いほど判った。なぜなら、彼のその哀しみは、ボクのそれでもあったからだ。

ボクだって、彼女のことを……。

「アンクセンパーテンと、結婚……」

こめかみに手を当て、ツタンカーテンは言葉をこぼしながらイスの背にもたれた。

「良かったではないですか、王子」

苦しげに笑顔を作り、ボクはツタンカーテンに言った。

「ああ。でも、それは皇太后の命であって、彼女の気持ちは……と考えると、ぼくは」

「アンクセンパーテンさまもきっとお喜びになっていらっしゃるはずですよ。お二人はあんなに仲が良かったではないですか」

「そうかなあ……」

複雑な表情で、彼はイスの背を抱え込んだ。

「そうに決まっています」

彼が望んでいたことが実現したのだ。心から素直に喜んであげなければとは思いつつも、ボクの言葉は表面上だけのものだった。そこに「ツタンカーテンさま……」と、大人の声の侵入。

「――?」

大臣のアイだ。

「王がお呼びです」

恭しく、彼は頭を下げた。

「ジェド、おまえはいくつだ?」

「はい、十一歳です」

「ぼくより二つ上――アンクセンパーテンと同じ年だな」

ツタンカーテンは頭の後ろに両手をまわし天井を見上げた。「ジェド、今この国は乱れに乱れている――兄上にもどうしようもないくらいに、だ。彼らは王家に対して絶えず反抗的な態度をとりつづけているらしい。王家の乱れはエジプトの乱れにも繋がる、と兄上はおっしゃっていた。ぼくは兄上をどうやって補佐していけば良いのか……ハア」

子どもには似合わない太いため息だ。

ボクはツタンカーテンの前に片膝をついた。「王子、私の父がいる限りエジプトは安泰です。やがて私も父の後を継ぎ、このエジプトのために、いや王子をお守りすべく立派に闘って見せます」

王子はボクの頭に手を乗せ微笑んだ。「頼もしいぞ、将軍の息子よ」

「ジェド」

「はい」

彼はボクを見つめて言った。「おまえは明日からしばらくの間、アテンの神殿で、あることを学ばなければならない」

「王子から離れて、何を学べと?」

あまりにも急な命令だったので、ボクは首をかしげた。

「“大いなる太陽・正しい言葉”の大陸から伝わる言葉を授かることが出来る者になるための勉強だ。詳しいことは行けば判る。早く身につけて、早く帰って来い。時が迫っているのだ」

ボクは更に首をかしげた。「時が……ですか?」

「そうだ。ぼくがテーベで即位式を行う前までにだ。良いな。それに……」王子は少しはにかんで俯いた。「おまえがいないと、ぼくは寂しい」

「御意」

「うまくいっているか?」

「はい、しかし父上、私は……」

ボクは彼に考えを改めて欲しかった。

「自分の使命を忘れたのか!」

激痛。気がつくと、ボクは頬に手をやり、床に倒れ伏していた。

彼は、拳を震わせながら「ワシが拾ってやらなければ、今ごろおまえは野たれ死んでいたのだぞ!」と怒鳴りつけ、ボクの胸倉を掴みあげた。

「お、お許しください、父上」

「ふん、判れば良い。イスラエルの子と称する下賎の民よ」

さげすむ瞳が、微かに光る。

ボクは口元の血をぬぐった。

「記憶を失っていると?」

頭を丸めた祭司たちは、エジプト軍最高指揮官のホレンヘブを囲んでいた。

「なんとも申し開きが出来ぬことだが、ツタンカーテン様のお遊びの相手をしている時、階段から落ち、その時に……」

毅然と構えてはいたが、中央に立つ彼は少し申し訳なさそうに言った。

「将軍、どうなさるおつもりか?」

「どうするも何も、彼の記憶が甦るまで待つしか手立てはなかろう」

「悠長に構えている場合ではござらんぞ」

「ならば、あなたたちのうちの誰かがジェドの意識に拡張接触なされてはいかがか?」

さげすんだ眼差しで、ホレンヘブは祭司たちを見回した。

「バカな。記憶のない者の意識に接触など出来ないことぐらい、将軍でもご存知であろう。下手すれば迷宮に入ってしまう」

祭司のひとりが、声を震わせた。

「ならば、待つしかあるまい」

「本当に何もかも思い出したと言うのだな」

「はい、父上」

「うははは。十年近くおまえの記憶が甦るのを辛抱づよく待っておったのだ。で、あの発音も、もちろん覚えておるな?」

「もちろんです、父上」

「な、ならば明日にでもテーベに赴き、アメン大神殿で待つ彼らにそれを教えてやるとするか」

「それは出来ません」

「出来ぬ? どういうことだ! まさかおまえ」

「いえ、あの言葉を発するものは、世界に一人しか存在できないのです。発することが出来る者が二人存在する時に、どちらかがその言葉を発すれば、それは神との契約を破ったこととなり、この世界は無に帰してしまうからです」

「ならばその言葉を聞くには……」

恐ろしげな表情を浮かべて振るえるホレンヘブに向かって、ボクは深く頷いた。

気がつくと、ボクはホレンヘブから与えられた剣を手にしていた。つかが真っ赤に染まっている。

「ジェド、なにゆえに……」

目の前には王が倒れていた。呻き声をあげている。後頭部からは大量の血が流れ出し、じわじわと床を染め始めている。

「私は……な、何ということを――!」ボクは、急いでツタンカーメンを抱き起こした。「いったい何がどうなって、どうしてこんなことに……」

「ジェド……く、薬を、飲まされたのだな……」

「おお、私は、私は……ツタンカーメン、しっかりしてくれ!」

泣き叫ぶボクの頬に、そっと彼の手が触れ、

「やっと、やっとそう呼んで……くれたな、ジェド。これでぼくたちは……本当の、友だちに……」

「うわあ! ツタンカーメン死なないでくれ! 何故私は、何てことだ!」

「ジェド、アンクセナメンには……このことは、言うな。このことを……知れば、彼女は……哀しむ」彼の手に力が入った。「ジェド……彼女は、本当……ほんとうに、優しい子なんだ…… ジェド、早く、逃げて……」

「――!」

彼はボクの胸元に顔を寄せた。

「うわああああああ!」

王家の谷に、彼は葬られた。

ボクの葬儀への参列及び谷への同行と埋葬品には彼が真理の象徴としていたアテンの品々も入れることを条件に、ボクは彼らにヤハウェの発音を教えるとことを約束したのだ。

アメンの祭司たちはスンナリとボクの要求を飲んだ。奴らにしてみれば、発音さえ知ることが出来れば、エジプトなどに未練などないのだ。葬式や王家の谷の財宝など、今となっては、知ったことではないのだ。

宝物室に次々とファラオの品々が運び込まれていった。玉座はアテンを象徴する太陽円盤の光に包まれているツタンカーメンとアンクセナメン、いや、ツタンカーテンとアンクセンパーテンが描かれた――彼がアケタトンで数年間政務をこなしていた頃に愛用していた――ものを指示した。即位したばかりの彼の肩にアンクセンパーテンが優しく香油を塗ってあげているところが描かれている羽目板の玉座だ。

アンクセナメン女王は瞳をうるませながら、懐かしそうに、いつまでも黄金色に輝く羽目板を眺めている。

そして、玄室にミイラが安置された。彼女は、彼の額にあるハゲタカとコブラの象徴のあたりに、小さな花束をそっと置いた。祈願盃、燭台、胸飾り――と二千点近くの品々が王の供をすることになったが、とりわけ彼女の花束が、彼にとっては一番の天国への供となるに違いない。

棺の蓋を閉め終えると、祭司たちはそそくさと外に出ていった。その後しばらくしてから、ホレンヘブも階段を登っていった。

宝物室にもどると、彼女は「ここは寒いだろうから」と言って、犬の姿をしたアヌビスの像に、大きくて真っ白な布をかけた。それから「王を守ってね」と囁きアヌビスの首に花輪をかけると、頬にキスをした。この時ボクは、彼女の――アンクセンパーテンのツタンカーテンに対する愛情に、胸を打ちつけられた。

彼女は、力なくゆっくりと振り向いた。「ねえ、ジェド」

「――?」

「王は……王は、天国に行けるよね」と必死に笑みを浮かべようとした。が、ふとしたはずみで手から落ちた陶器のように、一瞬にして、そのまま声をあげて泣き伏した。

「アンク……セナメンさま――」

ボクは寄り添い、彼女の肩に手を置こうとした。が、それを出来なかった。薬で操られていたとはいえ、ボクは人殺しという、とんでもないことをしてしまったのだ。ボクは罪びとなのだ。

ボクは彼女をそっとしておき、その場を離れた。

墓の外に出ると、背後にアメンの祭司たちを従えたホレンヘブ将軍が立っていた。彼と目が合い横を通り過ぎる時、ボクは言った。「明日、神殿に行きます」

ホレンヘブは何も言わずに頷いた。アメンの祭司たちが満足そうな笑みを浮かべ、ボクのことを鼻で嗤っている。

ボクの腰には、父ホレンヘブからもらった剣があった。つかに目がいった。このつかで、ボクは……。

ボクはホレンヘブをにらみ返した。

「どうした、わが息子――イスラエルの子と称する下賎の民でありながら、ワシに拾われたお陰で、誇り高く優秀なエジプト人としての生活を約束されている者よ。末は軍隊でのしかるべき地位を約束されている者よ。おまえはその約束された地位を捨て、イスラエルの子と称する民に戻りたいのか? ワシはやがて王になる。ワシが王になった暁にはおまえの民をもっと苦しめてやる。ワシはなあ、イスラエルの民が嫌いなのだ。何ゆえ今までの王たちがあの者共をひいきするのかが、ワシにはちっとも理解できん。異国の民のクセに……。だが、おまえだけは軍の高位を約束してやろう」

さげすみの目が、ボクを刺す。

ボクは何も言わず拳を握り締め、彼に背を向けた。

荒涼とした広い大地を、ボクは歩んでいた。

突風がさっと体を叩く。ボクは、おもむろに腰にさした剣を抜き出し、どんよりとくすんだ空にそれをかざした。

その時――

「かけっこをするぞ、ジェド」

声が聞こえた。

「ぼくに追いついてみろ!」

幼き頃の王子の声が、ボクを誘っている。

あのころは、楽しかったなあ……。

剣のつかに力をこめると同時に、ボクは呟いた。「ツタンカーメン王……いや、ツタンカーテン、今度はおまえなんかに……負けないぞ」

ボクは、高く上げた剣で、自分の胸を、突き刺した。