15 サルベーション

主イエス・キリストが「されこうべの地」で十字架磔による処刑をされてから、三日が経っていた。

キリストを裏切った後、ユダはエルサレムから遠く離れた場所へ一旦は身を隠したが、イエス昇天における大地震の時に、自分の冒した罪を認め改心した。この地震の際、墓の蓋をしていた大きな岩までもが揺れ動き、聖人たちが深い眠りから目覚め甦ったという。

改心後のユダは、まず学者たちから受け取った銀貨三十枚を彼らに返却しようと思ったが、何もかもが遅すぎると恥じ、イエスが祈りを捧げていた地――つまり彼がイエスを裏切った地――ゲッセマネへと向かった。

人気の無い場所で彼は、首を吊ろうと覚悟した。時は、夜中――それも、ちょうど彼がイエスを裏切った頃であった。自ら自分の命を絶つことは、イエスが禁じていたことである。だが、彼はあえてそれを選んだ。

彼は、木にぶら下がったロープに首を通そうとした。「お許しください、先生……」

その時――

天空からの声。

「やすらぎが、あなたと共にあらんことを」

その声は、紛れも無い主の声であった。

彼は、どんよりとした空を仰いだ。「先生……あなたですか?」

雲が散り、光がさしこんだ。

「ユダ、ここに来なさい」

背後から声がした。

震えながら振りかえったユダの目の前には、復活を遂げたイエス・キリストが立っていた。

「先生! そんなことがあろうはずが……」

ユダは、イエスの前に泣き崩れた。

「父のため以外に自らの命を絶ってはならない」

イエスは、厳かな表情であった。

「ですが先生、私は父の子であるあなたを……」

「あなたはまだ理解していないのか。私は何度もあなたたちに言ったはずだ――あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのだ――と」

「ですが先生、もう全てが遅すぎました」

「悔い改めることに、遅すぎるということは無いのだ。今があるではないか」

「しかし……それでしたら、私はこれよりこの先、どうすればいいのですか?」

「あなたは、どうしたいのだ?」

「私は……」ユダは咽びながらイエスを見上げた。「私は、今でも、あなたの愛を伝えていきたいのです」

「そうしなさい」

「しかし私には、もうその資格はありません」

「確かにあなたは、わざわいとなった。しかしそれは、私を裏切るためにしたのではなく、神の命は永遠であるということを、すべての人に教えるために、それを行ったのだ。だからあなたは、今から生まれ変わることにより光となるのだ。

あなたはこれまで神を意識せず、自分の世界のことだけを意識していた。目に見えるものだけを現実だと思っていたからそうなったのだ。神という大いなる意識に、まだ目覚めることが出来ないのか。誰でも私と共にありたいなら、世俗のことだけを意識するのでなく、自分の十字架を理解し、私と共にあるのだ。

父は、私が父のために命を捨て――そのことによってもう一度愛を取り戻したからこそ――私を愛で包んでくださったのだ。誰も人から命を奪うことは出来ない。自ら父のために――人のために、それを捨てることこそが愛なのだ。人にはそれを捨てる力があり、またそれを取り戻す力がある。それが父から授かった権威である。そしてあなたにも、その権威は父から授けられているのだ」

イエスは慈愛に満ちた表情で、ユダの頭に手を置かれた。「私は世の光である。私と共にある者は闇の中を歩むことなく、光の中に命を持つ」

イエスはそう宣言すると、ユダを抱きしめた。その時、ユダの全身が暖かい光に包まれた。

「ユダよ、これからはマッテヤと名乗るが良い。そして光への道を歩むのではなく、光の道を歩むのだ。さあ、行きなさい」

意識の拡張による奇蹟の数々を目の当たりにしてさえも、彼の固定観念がそれを受け入れることを邪魔していたのであった。が、しかし、今まさに彼は、復活したキリストから真実の愛を感じることにより、拡張意識を手に入れた。それが彼を生まれ変わらせ、変貌を遂げさせたのだ。

「これが、ユダの――ボクのその後だったのか……」ボクは彩香に振りかえった。「イエスの意識は本当にすごい! まざまざと、ボクはそれを感じることが出来たよ。」

ボクは、彼女の肩に手を回した。

彩香はボクに寄りかかる。「ええ、彼には意識のネットワークなんて無かったわね」

「愛そのものが、彼の意識なんだ」

セルジオが言った。

「不偏の愛――それが神そのものなのね」

メルが、セルジオを見つめ確認をする。

「そう、神と言われている大いなる意識は、愛そのものなんだ。どこにも偏っていない。だからこそ平等にぼくたちを慈しんでくれているんだ」

「セルジオ、今の君の言葉でボクはやっと理解することが出来たように思う。ボクは学生の頃、もし神が存在するのならば、何で戦争や凶悪な犯罪が起こるのか、と不思議に思っていたんだが、それは神が不偏の愛そのもので、愛とは全てを許し認めることだからなんだね」

「そうさ。どんな意識をもとうが、神は咎めない。なぜなら、それが愛だからだ。咎めると、それは愛では無くなるんだ。世界中の全ての意識を許可し認めること――それが神の愛なんだ。ジョナサンは、それを“大いなる意識”とか“大自然”と読んでいるけどね。だからキリストは、愛ゆえにユダというわざわいをも許し、認めた。そして、改心したユダが伝道をしたいと言った時も、彼はそれを許した。イエス自身は、きっとユダが裏切ることは弟子にしたときから判っていたんだろうね。なぜなら彼は、私があなた方を選んだのだ、と言っていたからね。彼がユダを弟子にした理由は、そんな彼の意識――裏切る者の意識をも救いたかったんだろうね」

彩香が口元に手をやった。「私たちには、すぐには到達できない心境ね」

ボクはイエスの深い心境に、思わず瞳を濡らす。「とてもじゃないけど、ボクには真似できない……」

「おいおい、また正しくない言葉の使い方をしているよ。“真似できない”というふうに、何々できない、といった言い方は良くないよ」

セルジオが羽根を振りながらボクを叱咤。

「そうだった。でもこういう時って、どう表現すればいいんだい?」

「そうだなあ、さっきの彩香みたいに“すぐには到達できない”とか、ぼくが言ったような“良くない”というふうにプラスの言葉の後に否定する言葉を使えば、プラス・マイナス・ゼロで内心で打ち消されることになる。“悪い”と言うのと“良くない”と言うのでは、意識に与える影響が断然変わってくるからね」

「なら、さっきぼくが言った“すぐには真似できない”は“そのうち彼みたいになれる”って言えばいいのかなあ」

「まあ、良しだろう」

「それにしても、イエスのような心境になるにはどうすればいいんだろうか?」

ボクは上を向いた。

「イエスは数々の方法を語っているわ」と、メルは羽根を広げた。「ユダの前に現れたときにも、その方法を一番先に言ったわ」

「えっ、何て言ったっけ?」

「やすらぎが、あなたと共にあらんことを――Peace be with you――それが、愛へ至る道なの。いつでも心を平安に保っていなさい。そうすれば、愛の状態になれますよ、とイエスはいつも言っているわ。その平安の状態になるためのテクニックが、ジョナサンやセルジオがよく言う日常生活での整理整頓や意識のネットワークの再構築、それに瞑想なの」

話を受けてセルジオが続ける。「メルの言う通りだ。心がやすらぎを感じるときというのは、ネットワークが中庸の状態の時なんだ。良い方にも悪い方にも偏っていない状態――それが、愛あるやすらぎの状態なんだ」

「ちょっと……」ボクはセルジオを制した。「ネットワークの多くが、肯定的に繋がっている方が良いんじゃないのか?」

「最初のうちはその方が良い。多くの人は否定的なネットワークを既に構築してしまっているからね。だから無理矢理にでもポジティブなネットワーク作りは大切だ。だけど、どちらかに偏ってしまえば、それは愛で無くなる。ジョナサンも前に君に言っただろう、物事には二面性があるけど本来は良いとか悪いとかは無いんだって。どちらかに目を向ける意識があるだけなんだって。それを的確に捉えることを出来るのが、中庸という愛の状態なんだ。完全な愛の状態には、ネットワークはないからね。それはそうと……」と、彼は一呼吸おいて、「話がそれちゃったけど、君にはまだ言葉を伝えるという仕事が残っているのを覚えているだろうね?」

そうだった。ボクたちは、ジェドを助けなければならないのだ。

だが……

これで、ユダが救われたと言えるのだろうか?