6 揃えなかったクツについて

翌日は、午前中に買い物を済ませておこう、とジョナサンに言われていたのだが、彩香のことをあれこれ考えてしまい、なかなか寝付けずに寝坊をしてしまった。急いで服を着替え、キッチンでアールグレイを飲んでいるジョナサンに「おはよう」も言わずに訳を話すと、ジョナサンはニッコリ笑って許してくれた。 

ブランチを終えると、ボクたちは来週一週間分の食料を買いに、車を走らせた。

ジョナサンは基本的には菜食主義だ。基本的にというのは、例えば、友人などから食事に招待されたりした時に肉料理が出された場合には口にする、ということだ。家では酒は飲まないが、外で出されればそれも飲む。

アラメダ通り沿いにある日系人向けの大きなショッピングセンター内でピーマンの品定めしているジョナサンに「菜食主義というのはシャーマンの修行と何か関係あるの」と問いかけると、彼は目を大きく見開いて「まさか! 私は野菜が好きなだけだよ」と首を振って笑った。ボクは日本の僧侶の話をした、「今ではそうでもないが、昔のお坊さんは菜食主義で、肉を食べると血が汚れるとか修行の妨げになるとかで、肉を食べなかったらしいよ」と。この話に彼は大いに興味を示し、「なぜ修行の妨げになるんだい?」と質問をしてきた。詳しい理由は良く判らないが、と前置きして「たぶん、生き物の血や肉を食べることで精神的に低いレベルになっちゃうからとか、殺生を嫌ってのことだと思う」と、あやふやに答えた。

「それならば……」彼はボクにピーマンを示し「これには生命がないのかね? 枝からもぎ取った時に殺生をしているのではないのかね?」と、ボクを見つめながら首をかしげた。

ボクはなんと答えればいいのか判らなかった。彼はピーマンをしげしげと見つめながら、「私は日本人が食事の前に言う『いただきます』という言葉が好きだ。ミスター森岡、あの言葉はどういう意味なんだい?」

これにも答えられなかった。

「私はこの質問を日本人の友だち何人かにしてみたが、彼らも困った表情で明確には答えてくれなかった。そこで私は自分なりに考えてみたのだが、きっと『いただきます』とは、あなたの命をいただきます、という命を与えてくれた生き物たちへの感謝の言葉なのだと自分で納得している。動物であれ植物であれ、命はあるんだ。だが、動物である我々人間は野菜や肉を食べなければ生きてはいけない存在だ。だから、生きるために我々が彼らを殺生することは、仕方のないことだと思う。それ故に、『いただきます』という言葉は――もともとは――殺生し食べるが、与えてくれた動物や植物の命を自分の命の一部とし、それを大事にしていくという自覚から来る感謝のあらわれだったのではないだろうか。そう考えてみると、食事は一種の儀式である、とも言える」

いただきますの本当の意味は、今のボクには判らない。だけど、そう考えるとボクたち人間が生きていくことというのは、確かに、他の生命との命のやり取りによって、生かされていることになる。いや、人間だけではない。動物もそうだし、植物も土から栄養をいただくことによって自己の生命を生かしてもらっていることになる。ボクたちは色々な生き物や大地の恵みから、その命をいただくことによって生かされている存在なのだ。だからきっと、そうやってすべての生命は、この大自然の中で、互いに生かしあいながら繋がっているのではないだろうか? ボクは何だかすっかり生命の神秘が判ったつもりになって、ジョナサンと修行するのが楽しみになっていた。帰りの車の中で、感じたことをジョナサンに伝えると、彼は「それは他の鍵に繋がっていく内容でもあるので、部屋に着いてから詳しく語りあおう」と言った。

だが、

事件は、

思わぬところから、

始まった。

マンションの前の駐車場にシボレーを停め、大きな荷物で手がふさがっているジョナサンの代わりにボクが先頭を行き、部屋の鍵を開けた。ボクはジョナサンから聞ける話が楽しみで、はしゃぎまわる子どものような心持で部屋に上がった。

と、そこまではよかった。

「ミスター森岡!」

するどい言葉が、背後から発せられた。

「何だい、ジョナサン?」

ボクはニコニコしながら振り返ったのだが、彼の表情を一目見るや、体全体が凍りついてしまいそうになった。たぶん、その時のボクは呼吸が完全に停止し、肩がすっかりあがっていたはずだ。

ジョナサンはボクが脱いだクツを指差し、ボクを睨みつけた。

散在している。

「ああ、これ? ごめん。すぐにちゃんと揃えるよ」

ボクは、わざと明るい声を出しながらクツを揃えだしたのだが、心の中では「なんでこんなことぐらいで、そんなにムキになるんだ」と、逆にジョナサンに対して怒りを覚えていた。

「これで、いいだろう?」

ボクの言葉には、さあ早く次の鍵の話をしてくれよ、という気持ちと、つっけんどんな態度が入り混じっていた。そんなボクの態度を見ると、彼は悲しそうな目でボクを見つめて、「君は、さっきの私の話を理解していない」と、捨て去るように言葉を吐いた。

ボクは、何が何だかまったく理解できずにいた。いったい何の話をしているんだ、ジョナサンは。

たかがクツを並べなかっただけのことじゃないか! 確かに昨日までのボクはジョナサンの部屋に入る時は、キチンとクツを並べていた。が、しかし、それは普段のボクの態度ではなく、他人の部屋に泊めてもらっている、という遠慮感からくる態度であって、日本で一人暮らしをしている時なんか、クツだけでなく、部屋の中も散らかし放題で、自慢じゃないが、食べ終わったインスタントラーメンの容器なんかその辺に散らかし放題だったんだぞ。それに比べれば、こんなことぐらいどうってことないじゃないか! 

ボクは、はっきり言って、すこし神経質で几帳面すぎるジョナサンにガッカリした。我はシャーマンだとか、リラックスが大事だとか、聖人君子ばりの格好いい話はするが、今のジョナサンはどうだ。リラックスのかけらなど、どこにもないじゃないか。口先だけ格好よくて、中身が伴っていない前の会社の上司みたいなものだ。

そんな思いが態度に出ていたのだろう、ジョナサンは「こっちにきなさい」と低い声を出してボクの手をとり、ボクが使っている部屋につれて行った。

「失礼する」と言って扉を開け、「こんなことだろうと思った」と、ある方向を指差した。

向けられた指の先には、ベッド。

この時は、彼が何を言いたいのかすぐに判った。それは「ベッドメイキングができていない」だ。

ボクは、恥ずかしさから、一気に顔が赤くなった。そしてその次の瞬間、開き直って「まだしつこく言うか、このオヤジは!」と、心の中で憤りが頂点に達するのを感じ、拳が、ブルブルと震えていた。

ジョナサンは呟くように言った。

「私の教えのひとつに、外心とこの世界の繋がりを理解するというのがある。それを理解するためには、日常生活が教えの実習の場であることを認識していないと、誤った方向に進んでしまうことにもなりうる。二番目の鍵の話をする前に、そのことについて話す必要性があるな」

そう言うと、ジョナサンは部屋から出て行った。

ボクはすぐに部屋の戸を閉め、ベッドの端に腰掛ける。話なんか聞きたくなかった。なんだか針で刺されるような痛みが胸の辺りにいくつもあるのを感じていた。その痛みの原因は、最初は二十九歳にもなって「クツを並べていない」だとか、「ベッドメイキングができていない」とか言われたことから来る悔しさからくるものだと思っていた。でも、しばらくすると、そうではなく「ジョナサンに嫌われてしまったらどうしよう」という恐怖心からからくる痛みだと判った。だから、「キチンとジョナサンにあやまろう」と考えるのだが、「あれぐらいのことで」という反感がほとんど同時に発生してきて、考えるのが嫌になり、それを心の奥底に押し込もうとすると、またすぐに浮上しだしてくる。それらを見ているもうひとりのボクが、「そのこと自体が取るに足りないことじゃないか」と言ったかと思うと、また別のボクが言葉にならない言葉で何かを囁きはじめ、結局どんな行動もとれなくしまっていた。そんなことが何回も繰り返され、へとへとに疲弊しきってしまった。

そのうちどうでもよくなって、ベッドに横たわった。

異国。そこは、中東の砂が激しく舞うところ――という感じがした。肌色の石で作られた何本もの柱に、大広間が囲まれている。中央には祭壇のようなものがあった。神殿だ。闇の中で、儀式が行われようとしている。長い帆先の船から、サラサラの砂地に降りたったボクは、祭壇のある広間へ向かおうとしていた。ここで儀式を終え神官たちから正式に認められれば、ボクは次の神殿で、その祝福として、“大いなる太陽・正しい言葉”の大陸から伝わる言葉を授かることが出来るのだ。

でも、“大いなる太陽・正しい言葉”の大陸ってどこだ?

戸を叩くノックの音で、目が醒めた。ジョナサンがドアから顔を出し「ホット・アップルパイを一緒に作らないか?」とボクを誘った。そういわれた瞬間、さっきまでの怒りはどこかへ過ぎ去ってしまい、嬉しくなって大きく頷くと、ボクはベッドから跳ね起きた。さっきの夢のことが少し気になったのだが、部屋を出ると、それきり忘れてしまった。

「温度調節が大事なんだ」

プレートに敷き詰めたリンゴをオーブンに入れながら、ジョナサンは言った。「リンゴ本来の味と香りを引き出し、かつ他の材料とのハーモニーも考えながら熱加減を工夫するんだ。与えてくれる命を精一杯、着飾ってあげる。料理は芸術の中の芸術だ」

パタンとオーブンのドアを閉めると、ジョナサンは額の汗をぬぐう。

リンゴの皮むきからオーブンにプレートを入れるまでのジョナサンの表情は、優しさにあふれかえっていた。与えてくれる命に感謝する彼の心が、ストレートにボクにも伝わってくる。

腰をぐっと伸ばして立ち上がると「大地といつでも繋がっているということは、いつでも感謝の気持ちでいる、ということなんだ」とボクを見つめて言った。

「いつでも感謝の気持ちでいる? ボクは、さっきジョナサンと一緒に買い物に出かけた時に、それに気づいたじゃないか。なのにジョナサンは、そんなボクを……」

咽ぶように、ボクは少しムキになって言った。

「気づいただけじゃダメなんだよ。ずっとその気持ちを保っていないと。君はまだ私から教えてもらう時間と、日常生活とを分けて考えている。さっき私がクツのことで君に注意したのは、そのことに気づいて欲しかったからなんだ。君は私が教えていることに対し、それを聞くことや一定時間に実践することを修行と表現しているね。だが、私は修行という表現があまり好きではない。なぜなら、その言葉に、ここからこれまでは修行の時間、そしてこれからは日常生活というわけへだてを感じるからだ。君は車の中で私に、すべての生命は大自然の中で互いに生かしあいながら繋がっている、と言ったね。そのとおりだ。君はその真理を知った。だが、知っているだけでその真理を実行できてはいない。つまり偉大な真理に対しての――生かされていることへの、感謝がないのだ」

ジョナサンが言っていることは、漠然とだが、判るような気がする。でも、そのこととクツのことがどう関係があるのか判らなかった。ボクは正直にジョナサンにそのことを言った。

「つまり、クツに関して言えば、君が普段、履くクツを君はどうやって手に入れたんだい?」

「靴屋で――おカネを出して――買って手に入れたんだよ」

子どもでも判る質問だ。

「なら、そのクツを靴屋はどうやって仕入れたんだい?」

「たぶん、卸業者あたりから仕入れてきたんだよ」

小ばかにされている気がしてきた。

「じゃあ、その業者はそのクツをどこから入手したのか?」

「きっとメーカーからだと思う」

「メーカーはどうやってクツを手に入れたんだい?」

「クツを手に入れたのではなく、合成皮革か動物の皮をどっかから仕入れてきて工場で作ったんだよ」

いい加減、腹が立ってくる。

「皮は?」

「牛だよ!」

それから少し、沈黙。

「私がしてきた質問に対する君の答えで、我々は二つの重要なことを知ることができた。それが判るかい?」

「ひとつは……」と言いながら、自信は無かったが、とっさに思いついたことをやけくそで言ってみた。「クツも自然界から与えられたものってことだと思う。つまり、牛の命がクツに活かされているってこと」

恐々と、ボクはジョナサンの表情を伺った。彼はしばらくボクを見つめて「ウン」と微笑んで頷いた。ほっとした。ほっとした後、肩に力が入っていたことに気がついた。ボクは背筋を伸ばし、息を吐いた。

「もうひとつは?」

「もうひとつは……」と言葉をのばしながら考えてみたが、何も思いつかなかった。「もうひとつは、判らない」

「ははは、諦めが早いなあ、ミスター森岡は」ジョナサンはアールグレイの準備に、やかんに火をつけた。「一足のクツを作るまでの過程を君一人がやるとしたら、君がそれを購入した代金で全部できると思うかい?」

ボクは想像してみた。

まず、牛を屠殺して、それから皮をはいでそれらを扱う業者に持っていき、業者はメーカーにそれを運ぶ。メーカーは工場で牛の皮を裁断したりミシンをあてたりしてクツに仕上げて……と、ここまで考えただけでも運賃やらそれに見合う人件費を考えると、とてもではないが、一人でやるには莫大な金額がかかることが判った。ちなみにボクが普段履いているクツは、日本の大手スーパーの年末大バーゲン時に、二九八〇円で購入したものだ。二九八〇円だと、お弁当を買って、ここから牧場に行って帰ってくるぐらいしかできないのではないだろうか。

「とてもじゃないけど無理だよ。一人で一足のクツを作るには費用がかかりすぎる」

「ウン、その通りだ。我々は各人が分担する仕事を通して、色々なモノやサービスを受け取ることができるのだ。人との繋がりへの感謝だ。そしてその供給源の大半は自然から得ている――食料や電気や家を作る材料と、いったものだ。どんな場合においても――そのことに気づいていようがいまいが――やはり我々は、自然と繋がっているのだよ。自然の一部なのだ。他から生かされ他を活かしているのだ。そのことに本当に気づいているのならば――クツを作ってくれた人たちや、売ってくれる人たちに対して――感謝せずにはいられなくなるはずだ。生活が私の教えと一体になってくるはずなのだよ。修行の時間、生活の時間といった分け隔てなどはできないはずだ。だから日々の生活をおろそかにしてはいけない」

たしかにそうだ。ボクはジョナサンから色々なことを教えてもらいながら、それを実践していなかったのだ。頭の中では判っていても行動できていなかった。ジョナサンがクツのことやシーツのことであれこれ言ったのは、ボクに知識を実践して欲しかったからなのだ、と今ようやく理解した。知っているだけでは何もならない。知っていることが行動になっていないと、本当に知っているとは言えないのだ。そう感じると、急いでボクは自分の部屋に戻り、ベッドを整えた。ボクが昨日、このベッドでぐっすり眠れたのは、ジョナサンという部屋の提供者がいたからであり、ベッドのおかげであり、それを作ってくれた人たちがいるからなのだ。思わずボクは、ベッドにむかって「ありがとう」と手を合わせた。

キッチンに戻ると、ホット・アップルパイの出来上がりを知らせるブザーが鳴った。