8 コンタクト

ベルが、鳴り続けている。

躊躇。

恐る恐る電話を手にした。

持つ手が震える。

自然と、ディスプレイに目がいった。

非通知。

ボクは、ゆっくりと、通話ボタンを押す。

「森岡君」

心臓が止まってしまうかと思った。まぎれもなく彼女の声だ。よかった、生きていたのだ。

「助けに、来てくれるのね」

「彩香、無事なのか。今どこにいる? すぐに助けに行く」

携帯を持つ手に、力が入った。

「無理よ」

「――?」

「今の森岡君じゃ、まだ無理。ここには来られないわ。それよりも、ジョナサンと代わって」

ボクは立ち上がった。今のボクだと「まだ無理って、一体どういう意味なんだ?」という叫び声に、ジョナサンが目を覚ます。勢いよく起き上がると、彼は木陰から大きな巨体を揺らしながら走り寄り、ボクから携帯を取り上げた。

「彩香だな。久しぶりだ」

落ちついた声で、ジョナサンは彩香と会話を始めた。それから、どんな話が彩香とジョナサンとの間で交わされたのかは、判らない。ジョナサンから出てきた言葉は「ああ」とか「そういうことだったのか」と「薄々は判っていた」や「急がないといけないな」で、そこから内容を推理することはできない。

ボクは苛立った。いや、苛立ちと言うかジョナサンに嫉妬を感じ始めていたのだろう。やっと彩香と連絡が取れ、話ができるようになったのに、彼女は二言三言、話をすると、すぐに、ジョナサンと代わってくれと言った。ボクがどれほど彼女のことを心配したかが、彼女には通じていないんだ。確かに今は彼女とは付き合っていない。だけど、ジョナサンなんかよりかは、ボクのほうがずっと彼女のことを知っているわけで、奴なんかよりは、ボクのほうが、絶対に彼女のことを心配していたし……という、とりとめもない怒り。そして、彼女を早く助けに行かなければ、という焦り。この二つが僕の中で混交していた。

最後に「判った」と言って、ジョナサンはボクに携帯を渡す。

「彩香……」

少し情けなく、ボクは声を発した。

「森岡君……」

「――?」

「……変な嫉妬――しないで」

気恥ずかしげな彼女の声が、ボクの心情を見透かしているようで、頬をを真っ赤にさせた。

彩香は話を続ける。「ジョナサンは、あなたという媒体を通してでないと私と会話ができないの。彼自身、かなりの意識拡張ができる人なのだけど、森岡君ほどではないの。もっとも現在意識での拡張はジョナサンのほうが、数段、森岡君より上だけど……」

「彩香、何の話をしているのか、ボクにはまったく理解できないよ」

「理解――できない、はずよね。でも、急がないとダメなの。アメンが二〇一三年以降の未来意識を手中に収めようとしているの。もし、そうなってしまったら、この世界は……」

咽ぶように言って、それきり彩香は黙りこむ。

「この世界が、どうなってしまうんだ?」

「……」

「彩香ァ!」

ボクの怒鳴り声に、彩香はビクッと反応し、ゆっくりと答えた。

「無くなって……しまうの」

この世界がなくなってしまう、アメンが未来意識を狙っている、意識の拡張、今のボクでは彩香のいるところに逢いに行けない――頭の中が、一気にこんがらがった。ボクはいったい全体、彩香と何の話をしているんだ?

その時、嫌な考えが浮かんだ。だが、それを確認せずにはいられず、恐る恐るボクは訊いた。「彩香、君は幽霊なのか?」

「幽霊? あなたが考えているような幽霊なんてこの世にはいないわ。ううん、この世っていう私の表現も間違っているかも……。 でも安心して。私は生きている」

「じゃあ、なぜボクは君と逢えないんだ。君のいるところに、どうして行けないんだ?」

「今の森岡君だと、意識の拡張が私のいるところまで充分にできないからよ。でも、こういして話ならできる」

「彩香、やっぱりよく判らないよ。だけど、ボクは君のために何をすればいいんだ?」

「ジョナサンの教えに従って。彼はこの状況を深く理解しているわ」

ボクは深く頷いた。

「今日は少し疲れたから、もう切るね。また電話する」

「待って、彩香、ボクはまだ!」

電話が、切れた。

なんてこった。これじゃあ、何も理解できない。また電話するって、あまりにも一方的すぎる。急いで着信履歴を調べてみたが、今までの履歴が全部消去されていた。発信履歴も同じだ。こんなことがありうるのか? ボクは夢でも見ているのだろうか?

ゆめ……?

そういえば、昨日の夢と今日の瞑想中に起こったヴィジョンの繋がりは、何を意味するのだろう? あのビジョンを見た後に彩香から電話があったのだ。それから意識の拡張とか何とか彩香が言い出して、それから、それから……。

彩香は一体、どこから電話をかけてきたんだ?

彩香……。

ボクは前髪をつかんで、空を見上げた。

カモメが飛んでいる。

波の音が、遠くから返ってきた。

そうだ、今ボクは、砂浜にいる。

お尻に着いている砂に気づいて、払い落とした。

砂浜の向こうには、ビーチバレーを楽しむ人たち。

切ない……。

ボクは、ジョナサンを見た。

「彩香が、教えに従えって」

「そうか」

「ジョナサンはこの状況を深く理解しているからと言ったよ」

ジョナサンが、ゆっくりと首を縦にふる。

「どうして、すぐに彩香に逢えないのかなあ」

「……」

「ボクは、彩香に逢いたい」

「……」

「逢いたいんだ!」

携帯を握り締め、ボクはその場に崩れた。

ジョナサンは深く頷くと、そのまま腰をかがめ、優しくボクを抱きしめた。苦しい思いを押さえきれずに、ボクは大声を出しながら泣いた。

いつの間にか、夕日が水平線すれすれのところにまで来ていた。

帰りの車の中、ボクたちはほとんど無言だった。何も聞かずにいたかったのだ。聞けば、きっと、決して後戻りができない方向へ行くことが理解できたからだ。それに対する怖さがあった。

ラジオがずっとながれていた。聴いているのかいないのか、といった感じだ。

ダウンタウンに入る頃、聞き覚えのある曲のフレーズが、ボクの耳をひきつけた。

Tell me why can’t we reach for another chance at heaven?

We can still find the way if we try

私たちは、天国へ至る道を探し出せないのかしら。

いいえ、探せば、かならずあるはずよ

             

アニタ・ベイカーの「ミステリ」。店でよく彩香が有線にリクエストしていた曲だ。

街灯色に染まったブルーの道路を眺め続けながら、ボクは呟いた。「天国へ至る道は、かならずあるはず……」